戦争体験集
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米山 好晃さん(千丸台団地 1938 年生まれ)
生まれは横浜の中心・伊勢佐木町4丁目、9人兄弟です。伊勢佐木町4丁目の裏通り・通称“親不幸通り”と言うんです。家の前がカフェーでした。 親父は11歳のときに辻堂から出て来て、和裁の仕立て屋...
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長谷川静江さん(桜ケ丘・1933年生まれ)
小学校から中学1年までは戦争中でした。父は子供5人を残し40代でなくなっていましたので、母は大変だったと思います。私が小学校入学と同時に、16歳も差のある長兄は学業を終え大手の銀行に就職したとき...
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小野寺 晃さん(宮田町・1931年生まれ)
昭和6年6月神奈川区(西区)浅間町生まれ、満州事変のさなか軍国主義、国の政策で産めよ増やせよと子沢さんを奨励、母は8人兄弟生む小生四男5歳下の弟と戦時時代の国民学校軍国主義天皇崇拝の教育を受けた...
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清野保さん(上菅田・1926年生まれ)
私は昭和20年2月15日・19歳のとき召集令状が来て東京世田谷の連隊に入隊した。 ここでは装具の支給や点検やらで1週間ほど滞在した。 2月下旬早朝起こされ品川駅まで歩かされ、汽車で九州の博多へ、博多港から...
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吉田実さん(釜台町・1934年生まれ)
私は昭和9年生まれで,当時小学校5年生でした。和田愛児園から船員病院の方にあがってくる大池道路の途中の保土ヶ谷中学裏門に近いところに住んでいました。 B29はちょうど橘中学の方向(南)からきて現在...
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広瀬タミさん(初音ヶ丘・1929年生まれ)
当時私は15歳。父はすでに亡く、母と弟妹は秋田へ疎開し、たった一人で横浜に残り、寮生活をしながら国鉄で働く少女でした。戦時中、男の人たちは戦地へかり出され、主な働き手となったのは若い(幼い)女性...
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石塚つね子さん(常盤台・1922年生まれ)
私は大正10年生まれで当時24歳でした。和田から星川に向かう国道16号線の左側、16号バイパスをくぐった少し先の一角に住んでいました。木村時計店,清水酒店、尾崎薬局、少し上には長友医院などが今でもが...
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手塚三千代さん(上菅田町・1937生まれ)
被災地「平沼橋から保土ヶ谷駅」 空襲当時は平沼橋在住 8歳(小学2年) 私は平沼橋で空襲にあいました。もともと、私の家は洪福...
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小林八重さん(霞台・1921年生まれ)
当時、私は軍需工場だった星川の古河電池に勤めていました。古河電池の工場は、5月29日の横浜大空襲の前に、かろうじて事務所を残し、空襲で丸焼けになりました。工場は、横須賀に移転して仕事を続けました...
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田沢清一郎さん(峰岡一丁目・1926年生まれ)
昭和20年5月日午前、横浜に空襲警報のサイレンが鳴ったとき、私は中区の高台にあった平楽小学校にいました。それまで昼間の空襲は珍しく、あってもほとんどが偵察が主であったので、大した緊迫感もなく、校舎...