戦争体験集

永山叡さん (上星川 1925年生まれ)

2016年9月10日

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私は昭和9年に満州国の新京(長春)で生まれました。父親が満州国の役人だった関係で新京、三江口、四平街、牡丹江、錦州と転々としました。三江口は大牧場でしたが日本人学校が無かったため、旅順の小父さんの所に預けられ通学しました。私が入学した年(昭和16年)から国民学校と呼称が変わり軍事色が濃くなってきました。それから隣組が強化されました。6月には独ソ戦が始まり、12月にはとうとう米英などに宣戦布告し長い戦いに入った。
私は天文学者志望だったが周りがみな軍人志望だったので海軍志望に切り替えました。
最初はハワイなどで勝ち、勢いもあったが17年4月に初の本土空襲があり5月にアッツ島の玉砕、9月にはイタリヤ降伏、10月学徒出陣と暗いことが続いた。体育の授業も上級生は軍事教練があり、私たちも腕立て伏せなどが多くなりつまらない時間になってきました。
18年にはハワイ戦の英雄山本五十六大将が戦死、戦局は厳しさを増してきました。19年には学童疎開、17歳から兵役、特攻が始まり、東京大空襲、牡丹江にいたシンガポールの英雄山下奉文が夜密かにフイリピンに移動(これは私見ました)、19年7月サイパン、20年3月硫黄島が民間人を巻き込んだ玉砕があり、4月にはとうとう沖縄が戦場となった。5月独降伏、戦っているのは日本だけに、8月6日・9日広島・長崎に世界で最初の原爆が投下され大惨事に、8月8日ソ連が日ソ中立条約を破って満州に侵入、ここから多くの悲劇が始まった。
私は20年4月に牡丹江から錦州に転校になり、同級生から戦場に近いところに行くなんて可哀そうと言われたがソ連の参戦で大逆転しました。
終戦5日前からソ連の戦車対策で夏休み返上で住宅街の周りに戦車壕を掘った(未完)、ソ連戦車のデモが行われソ連のは軽く這いあがれるが、日本のは全く出れなく性能の違いを見せつけられて驚くやら悔しいやら、これでは勝てないと強く感じた。
終戦と同時にソ連軍と八路軍(中共)が侵攻してきた。ソ連兵の大半はシベリヤの囚人という噂があり本当にだらしなかった。八路軍はちゃんとしていたが人民裁判をそこここで開き、中国人の金持ちなど簡単に死刑にしていたのが嫌だった。。日本人にはしなかった。中共と国民党軍の闘いが始まり外出がが禁止となったが好奇心の強かった私は屋根に腹ばいになって覗いたが、弾が頭に当たり吹っ飛んでしまう光景を見て震えが止まらなくなり、戦争は絶対にしてはならないと強く感じた。だいぶ平穏になったころ遊んでいたところに中国人の子が来て石を投げてきた。その中に仲良しだった李君がいたのがショックだった。
また21年春から引き上げが始まったので北満にいた人が錦州に集まってきた。その中に牡丹江での友渡辺君がいて、彼の話だと牡丹江を出発した時は百人ほどのグループだったが途中で匪賊におそわれたり病気になったりで、錦州に着いたのはたった8人だったそうだ。彼もご両親とはぐれ妹さんを連れていたが病死、畑に埋めてきたそうだ。何も言えなく肩を組んで泣くだけだった。彼の姿はまるでベトナムの難民だった。
私は5月に引揚げたが錦州から乗船しコロ島に行くのが大変だった。普段なら列車で1時間弱ののところ、無蓋車で途中運転手が物を強要したり気に入らないと停車するため8時間ほどかかった。小さい弟妹はトイレで泣いたり暑くて弱ったり大変だった。コロ島で米軍のLSDに乗った時はホットしたが船中で弟を亡くした。佐世保に上陸したとき伝染病予防と虫駆除のため、頭から大量のDDTをかけられ真白になったのに驚いた。
平和が続いているように見える日本だが、25年に警察予備隊それが29年には自衛隊に、そしてそれを軍隊へと着々と進めている。東北や九州の災害の後始末も済んでないのになんということだ。戦いに金を使うとは、戦争は絶対にしてはいけない、その被害はまずこども、女性、高齢者に行くのだからしてはいけない。

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