戦争体験集

今泉 好夫 (仏向町 1937年(S.12)生まれ)

2016年11月8日

IMG_2566 あの戦争さえなければ

私の幼少の頃の体験記 
  物心ついた頃(3~4歳頃)は星川3丁目に住んでいました。1943年4月に星川小学校に入学し、その年の7月から8月にかけて東京空襲、横浜空襲と続き星川小学校1年から6年の大半は鶴ヶ峰の三つのお寺に集団疎開しました。中に縁故疎開と言って地方に親戚のある人はそちらへ行きました。
一か月ぐらいは食糧がありましたが、一か月過ぎると食料が無くなり、子どもたちは小川の石橋に座り、動くこともできない状態でした。たまに親が持ってくる蒸かしたさつま芋やその粉で作った、黒いダンゴなど食べて飢えを凌いでいました。8月のある日、私の長兄が迎えに来ました。その後のこと記憶にありません。
気がついた頃に時には上野駅に居ました。家族は私と3歳年下の弟と赤ちゃんの弟三人。女性は、祖母と母と二歳上の姉の三人で蒸気機関車に乗り山形駅に着き、山形駅から左沢(あてらざわ)線に乗り寒河江(さがえ)の駅に着きました。駅から県道を渡って山道を12キロ歩いて着いた所は、廃坑になっていた銅山でした。当時そこに平屋の二軒長屋ありました。その一軒を借りて生活していました。
春は山菜取り(ワラビ、ゼンマイ、山ウド、山ブキ、水菜など)、夏はマムシ取り、取り方はおばあさんに教えてもらいました。山に入る時は、鉈・鋸を腰に巻きつけて入ったものです。マムシはトグロを巻いているので棒でマムシの頭をたたくと、怒って動かなくなるので2mの三又を作って首を挟み鉈の柄で頭をつぶし、家に帰り大人の人に皮をむいてもらい3㎝ぐらいに切って竹串にさし囲炉裏で焼いて食べたものです。(唯一のタンパク源でした)山奥の川に大きな石があり、すぐ下はかなり深くなっていたので、その石の上に登り飛び込んで泳いでいました。
秋はキノコ採り、落ち葉で見えませんが一か所見つけると、子どもの背駕籠に半分ぐらいとれます。冬に備えて薪取りをしました。冬は子どものスキーがないので大人のスキーを借りコチンコチンに凍った道路で猛練習をしました。山の上までストックを頼りに滑って遊んだものです。だれもいない一面の銀世界、美しさは忘れることはない。5年間同じ生活をしてきました。私は6歳で山深い中で獣と同じような生活をしてきたので、恐ろしい、恥ずかしい、淋しい等あまり持っていません。成長と共に身につけていくことを、6歳の子どもが5年間で体験したことが、原点になっていると思います。老齢を迎えて、しみじみと思っています。あの戦争さえなければ私の人生も異なった方向に進んでいたと思います。2016年6月記

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