戦争体験集

手塚 一美さん (上菅田町 1935年生まれ)

2015年9月9日

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1935年(昭和10年)西区西戸部町に女4人の後5番目の長男として生まれる。
1934年(昭和19年)7月サイパン島が玉砕しました。ここを基地にした米軍機の空襲の被害を少なくするため、学校のまわりの家が強制疎開で壊されはじめたのです。8月の夏休みで国民学校は閉鎖され、田舎のある者は田舎へ、ない者は箱根の大きな旅館へ集団疎開しました。私は国民学校3年(9歳)のとき父の出身地山梨県南巨摩郡平林村へ縁故疎開しました。すでに父は亡くなっていましたので疎遠になっていましたが頼み込んだものと思います。もうその頃は長距離列車には理由がなければ乗れなく、学童疎開の届けを添えて切符を買ったようでした。ランドセルに防空頭巾をくくり付け、手に習字道具を入れたカバンを持って、トランクをさげた姉に連れられて列車に乗りました。遠くに行ったことがなっかった私は、うきうきしていました。
甲府駅で降り、ちんちん電車で50分くらい行った終点の青柳から約12キロ谷川沿いの急な山道を登った所が平林で、村全体が急斜面で石積みの段々畑の中に7~8軒の集落が点在し、共同の水車小屋がありました。それぞれ農作業用の牛か馬を飼っていました。駐在所も医者もなく、病人は背負子に着けて谷川沿いの山道を下って病院へ運びました。
疎開先は叔父叔母国民学校高等科へ通う3人の義兄でした。牛や兎が飼われ、畑では稲、こんにゃく、とうもろこし、豆、かぼちゃなどがつくられていました。昼間は親戚の子らと遊んだが、日暮れになると寂しくなり、富士山を眺めて涙を流していました。
夏休みが終わり田舎の学校に転入した。1、2年生が1クラス、3,4年生が1クラス、5,6年生が1クラス、高等科は1,2年生が1クラスでした。入学式や卒業式などの催しがあるときは、教室の間仕切りの板戸を外して講堂として使用しました。疎開してくる子ども増え教室は満員状態でした。手塚、秋山、保坂、深沢などの名字が多く名前で呼んでいました。先生はの若い女性の代用教員の五味先生で、ゴミゴミとからかわれて、泣いて教員室に帰ってしまい、飛んできた男の先生に怒られた。
田舎の子は学用品も満足になく教科書も隣の子といっしょに読んだ。成績は疎開組がよかった。しかし勤労奉仕になると田舎の子は張り切った。近くの山から薪を運ぶとき疎開組は自分に合った背負子がなくヨロヨロして田舎の子に笑われた。春と秋には農休みがあって田舎の子はよく働いた。
  秋に終わりごろ戦意高揚の巡回農村慰問団が来ました。教室を講堂にした会場は、楽しみがない村ですから満員でした。出征兵士の壮行会は校庭で先生や生徒全員で送りました。武運長久と書き家族や知人の名前を書き込んだ日の丸を肩から斜めに下げ、演壇で直立不動の強張った顔であいさつしていました。校庭を出るまで万歳万歳で見送りました。疎開したのが夏だったので冬着るものがなく、しもやけやあかぎれが痛く、見るに見かねて2軒先の親戚のおばさんが子供用の足袋をくれたんです。いまだに忘れられないです。疎開で一番つらい時期でした。楽しいこともありました。雪が積もると山の斜面を踏み固めソリで滑るのです。鼻水が凍るほど夢中になって滑りま

昭和20年3月、卒業が見えてきた義兄に石和の農民道場に行かないかと男の先生から声がかかりました。先生の話を叔父は黙って聞いていましたが、叔母は頑として「働き手が居なくなる」と言って返事はしなかった。先生は毎晩来たがとうとうあきらめました。農民道場は満蒙開拓団の訓練所だったのです。
戦没者の慰霊祭が村人を招いて学校で行われました。こんな歌を歌いました。 「二つ無き身を皇国の為に殉じし尊しや・・・
凱歌轟く今日にして とむらえ全国勇士の霊を」
中は忘れたが、何回も練習させられました。ラジオでは敵艦何隻撃沈とか成果を発表していましたが、氏神様の御神木の杉の大木が切られて出征するとか、日本軍の前には、ちらちら白い物がいて兵隊を守っているとか、変な噂が流れました。そんな中一人だけ戦争は負けると言った人がいた。村人は「ここだからいいけど広地だったらお巡りさんに捕まるぞ」といい合いました。
春になると蕨とりです。各分団に1貫目(3,7kg)とか割り当てがありましたがそんなに採るれなかった。どうしても肉が食べたくて近所のガキ大将たちと沼でカエルをつかまえ、小刀で皮をはいで足の肉を切って缶に入れ煮て食べた。
富士山の上をチカチカ光ったB29 を見たのもこのころです。3月に東京が空襲を受けたニスースがあり、5月29日の空襲で横浜は全滅した噂が立ったが遠く離れた田舎では身をよじって心配してもどうにもならなかった。6月になって3番目の姉が青白い顔をしてひよっこり田舎にきた。懐かしかった。焼け出された家族は全員無事を知った。
2,3日して姉が横浜へ帰るとき急に里心がついていっしょに帰ることにしました。帰りのことはポッカリ穴が開いたようでどうにも思い出せません。夜遅く横浜につくと焼け焦げた臭いが鼻に来ました。どこを見ても真っ暗で動くこともできず駅構内で寝ました。朝になってどこを見ても焼け跡で西戸部国民学校が見え、ここだよと姉に言われるまでわからなかった。防空壕に焼けたトタンを被せたようなところでした。
おばあちゃんが「よく帰ってきた」と喜んでくれました。母も元気でした。おばあちゃんは「死なばもろとも」と結婚した娘たちを、みんな手元に呼び寄せていたのです。息子はみな兵隊にとられていました。終戦直前6月中旬ごろのことでした。

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