戦争体験集

米山 好晃さん(千丸台団地 1938 年生まれ)

2013年10月21日

 

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生まれは横浜の中心・伊勢佐木町4丁目、9人兄弟です。伊勢佐木町4丁目の裏通り・通称“親不幸通り”と言うんです。家の前がカフェーでした。
親父は11歳のときに辻堂から出て来て、和裁の仕立て屋で奉公を始め、そこで職人になりました。お袋は金沢文庫の芝町で漁師の子として生まれました。女中奉公に来ていてそこで親父と知り合い結婚、4丁目に世帯をもったわけです。
昭和16年吉田小学校に入学するんですが、その前に戦争は始まってます。もう何が何でも兵隊にするため疎開までやらしたんです。私が入学する1年前の教科書は「さいた さいたさくらが さいた」でしたが、国民学校に入学した時は「あかい あかい あさひ あさひ」
と威勢よくなり、なんとか戦争で戦わせようとしたんですね。
小学校3年の時にミッドウエーで敗北し戦況が傾いてきた、その時に集団疎開に行きました。その時集団疎開は3年から5年生まで、6年生はすぐ卒業するから行っても行かなくてもよかった。すぐ徴用に行って働いたんでしょうね。私は3年生で行って5年生まで辛抱強く居ました。なにせ子供ですから親から離れるなんてとんでもない話ですが、行ってからわずかしかたっていないのに親に会いたい一心から脱走しました。                    
  行ったところは箱根山・宮ノ下で、ケーブルカーで下へ降りると大和館と大成館という高級な旅館だったみたいです。初めのうちは百人くらいでした。初めのうちは珍しいから我慢していろいろなことをやった。ところが軍隊生活のようで、先生が恐ろしくてしょうがないい。その時から先生とは口をきいたことはない。言うことは聞いたけど、話したことはない。朝「起床」というんですよ、それで起きないと大変なことになってしまう。縁故疎開に行ったり、途中で逃げて帰ったり、最後に残った人は20人しかいなかった。逃げて帰って捕まると、先生が見せしめにみんなの前で殴るける蹴る、子供を先生がやるんですよ。なにしろ腹がへるんですよ、これが一番困る。鍛えても鍛えても、立派な体にはならない。でも、箱根は嫌なことばかりではない、あの大阪館大和館の周りには、早川が流れていて、泳いだりまた蛍の時期になるとすごいんですよ。
点呼の時にパッと出られるように防空頭巾ををかぶりゲートルを巻いて寝るんです、それは厳しかったが軍国少年だったんですね、帰ってくるまで平気でした。
竹槍が終戦間近になって訓練しました。箱根は竹藪が多く、竹を切ってきて「これで米畜を刺すんだ」、そうやって教育を受けたんだから、もうなにがなんでも天皇陛下のために命をささげる、平気だったんですね。
天皇陛下の玉音放送を聞いた時には、ラジオがザワザワして聞こえなく、何を言っているのかわからなかったんです。後で先生に聞いて、「負けた」ということになったがアメリカの野郎が来たら竹槍で刺してやると、馬鹿げた話ですね。負けてもまだそんな気持ちだった。それから蚤とか虱がすごかったです。終戦でアメリカがDDTを持ってきてそれで無くなった、日本では処分できなかったんですね。横浜・桜木町に着いたら焼け野原で、蒲鉾兵舎がズラッと建っていました。お袋が生まれた金沢文庫の親戚に身を寄せました。お袋は苦労したようです。魚籠を背負って、鰯を街中売って歩くんです。手伝った覚えもあります。色んなことをやりながら子供を育てたようです。

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