戦争体験集

長谷川静江さん(桜ケ丘・1933年生まれ)

2012年9月22日

無hasegawa 題

 

小学校から中学1年までは戦争中でした。父は子供5人を残し40代でなくなっていましたので、母は大変だったと思います。私が小学校入学と同時に、16歳も差のある長兄は学業を終え大手の銀行に就職したとき、「ああやっと家の役に立ってくれる」と母はとても嬉しそうでした。ところが1カ月経つか経たぬとき上司が見えて「仕事は申し分ない。しかしネクタイとポマードをどうしてもつけてくれない。家庭の協力を」と訪れました。本人にその話を伝えると一言「くだらない」と言って翌日辞表を出し「船に乗る」と言って日本郵船へ入ってしまいました。日ごろから無口で変人のところがありました。次兄が学業を終える頃に戦況も切迫し、兄二人は相次いで召集され、長姉も動員されました。残されたのは小学生の姉と私と母の三人でした。こうした中で、勝った勝ったという大本営発表、次第に衣食は不足し空腹の日々となりました。 さいわい、家が磯子の根岸湾に近かったので、春にはあさりを、冬には海苔やわかめを採りました。12月から2月の寒中、素足で海に入り遠浅の湾にヒタヒタと満潮が打ち寄せると、まるで黒い帯のように流れてくる海苔を素手で採るのです。気がつけば海水が服までせまり慌てて岸へ戻ります。子どもたちはお互いに成果を見せ合いながら赤くかじかんだ手に海苔いっぱいのザルをかかえて、「じゃまた明日ね」と家路に向かいます。採集の喜びを味わった経験でした。食べるために子供達も一生懸命働いた・・・これも子どもたちの戦争だったのでしょう。

   親たちはそれを包丁で細かく刻んで簾に干し、10枚ずつ束にして農村で主食になるものと交換しました。とにかく日常的な空腹の中、子供たちは知恵を絞って、ときには仮病を使って貴重な卵にありついたりしました。
学校では軍国教育が進み、朝礼はまず「宮城に対し奉り最敬礼!」から始まります。先生の中には、頭が高い生徒の頭をこずいて敬礼の高さを統一させていました。シンガポール陥落といっては提灯行列に動員され、万歳を叫びながら町中を行進させられたり、愛国心の高揚が計られていました。教科書も同じくいまでもよくおぼえているのに「軍国の母」というのがありました。ひとりむすこの戦死のしらせをうけとったおかあさんが「よくぞお国のために果してくれた」とにっこり笑い、涙ひとつこぼさなかったという話が載っていました。先生の中には、やたらとビンタをする人もいました。軍歌に合わせて体を動かす練習時、戦闘機のつもりで両手を伸ばし右旋回するのを、間違えて左旋回した友人は、「隊列を乱した」とビンタされ、歯が欠けました。答えが同じ正解でも先生のやり方と違うとビンタ。今なら当然問題になる事件も軍国主義国家の下では上に従うことが当たりまえ。みんながビンタされる悪平等にもならされていく恐ろしさがありました。 すべての生活必需品が不足する中で物資は配給制となり、手ぬぐい、本も貴重品となりました 。戦地の兵隊の衣服のために、麻に似た草を刈らされたり、武器を作るために道に落ちている釘や鉄くずを拾わさせられたりしました。家中の鉄製のものは町内会で集められました。・・・こんなことで戦争に勝てるのだろうか・・・当然考えてもよさそうな疑問さえ一つも持たず、勝つためにとそれをやり続けたこと・無知より恐ろしいものはありません。 
   戦局は悪化し、本土空襲も激しくなりました。サイパン島も玉砕寸前の中で学童疎開の命令が出されました。時の総理大臣・陸軍大臣でもある東条英機は、「戦う人間不足が予想されるので、人的確保のため子供たちを避難させよう」と定めたそうです。しかし初めは「子供たちをバラバラにすると、日本の家族制度が崩れてしまう。日本古来の大和魂は、日本の家族制度の中で培われている。日本国というのは、国体を維持して天皇を頂点としたピラミッド型。これが家族制度、家父長を中心とした家族、そこに大和魂が通っているのだから、その制度をなくしたら大和魂に差支えが出る」ということで反対したそうですが、人的確保が優先されたそうです。  
   横浜市の記録を見ますと、対象になった児童は6万7千人、52%が縁故疎開、37%が集団疎開、残り11%が残留組となっています。身体が悪いとか家族の事情で疎開できなかった残留組は、学校によっては弱虫組とか言われて差別を受けたそうです。保土ヶ谷区では、集団疎開地として狩場、二俣川、東戸塚あたりが対象にされたようです。私は、今の港南区日野へ縁故疎開しました。働き手を兵隊にとられ、どの農家も人手不足で大変な過重労働で田畑を守っていました。私も朝早くから夜遅くまで働きました。おやつのお芋を貯めて母に届け、母もまた配給のお芋をふかして私を待っていました。交換し合って食べたものです。
   空襲が激しくなる中で、母たちも疎開してきました。特に夜の空襲は裏山の防空壕までの暗く細い道を「敵機」を頭上に逃げ込むことも多くなり、恐ろしい限りでした。空襲警報と同時にもう「頭上」にいる事態が多くなり、5月29日の横浜大空襲となりました。
   元町の女学校1年生だった私は、その日学校に着くなり、今日は敵機の大編隊が来るのですぐ帰宅するよう緊張顔で伝えられました。皆急いで家路についたものの、遠い人は途中で危ない目にあった友人もいました。
   裏山の防空壕にやっと辿り着いた時には、B29の大編隊からまるで鳥の糞のように黒い弾がバラバラと落とされていました。「中区がやられている」と消防団の人が叫んでいました。たちまちあっちこっちに黒煙が上がり、火の手が広がっていきました。姉の職場は中区。今のにぎわい座のある中税務署でした。中区は全滅らしい、犠牲者多数。情報が飛び交いました。鎌倉街道には、家族の安否を確かめる人たちが、道の両側にギッシリと重なり、上大岡、弘明寺方面から来る人たちから情報を得ようと必死でした。そのうち黒い塊のような集団が近ずき、あっちこっちで声が上がりました。顔は煤だらけ、髪は乱れ、戦火を逃れて生き残った姿でした。その中に姉もいました。元町の校舎も全焼し、その周辺も多くの犠牲者が出ました。焼け残った学校に分散して間借り教室で授業が再開されたのは終戦後でした。                                     

   さいわい兄は中国から復員し日本鋼管へ就職しましたが、間もなく栄養失調と結核で入院しました。「くだらないことはやらない」兄は軍隊でもよく営巣に入れられ、断食させられていたようです。語らない兄のメモ書きの詩歌の端々から窺えることでした。ドクターストップされていた読書も守らずむさぼるように本を読んでいました。私は言われる本を探しては病室に届け、毎週通院していました。中学生になって私も、あの戦争はなんだったのか、真実とは何か、人間とは? 等々たくさんの疑問が湧き出していました。 
   大人の人は何を考えていたのだろう。戦いで多くの人が死んでも、誰一人としてあやまらない。責任を取らない。神様も昨日まで武運長久だったのに平和祈願と衣替え。すべてに不信感がつのりました。
そんな時、中国の抗日運動の本を読んで感動したので兄に持って行ったのです。目次に目を通すやいなやいきなり本を床にたたきつけました。思わぬ反応にびっくりしていろいろ考えました。日本の軍隊として中国でやってきたこと、これが無口な兄を一層物言わぬ人にしてしまっているのではないかと。その後二度の自殺をはかり、厳しい闘病生活の末、結核で亡くなりました。
     「自分でよく考え、正しいと思ったらそれを貫け。ただし先頭に立つな」。私の質問に答えてくれた兄の言葉でした。これが私と兄との一番長い会話でした。
   たくさんのスケッチ、人の顔のデッサン、小さな字で書かれた何冊もの大学ノート。これらも開放性結核の感染予防で、すべて病院で焼却処分にされました。それがいまだに悔やまれてなりません。
   無知であるために洗脳を許し、戦争に力を貸す結果となること。目先のことに追われ考えることをしない時。知ろうとしない時。それは戦争や悪政を許す罪悪であることと思わざるを得ません。

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