戦争体験集

岩井俊子さん(常盤台・1927年生まれ)

2012年3月5日

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横浜大空襲のとき、私は18歳でした。横浜双葉学園を三月に卒業し女子挺身隊員として桜木町駅近くの県警察部保険課に勤務していました。戦争が激しさを増したためでしょうか、戦争の終わる少し前、保土ヶ谷の山の上の霞台教会を接収し、移転しました。

モンペを履き、防空ずきん、救急袋を肩にかけいつもと同じように出勤いたしました。その日は朝からよく晴れた日でした。警戒警報、つづいて空襲警報。タタタタタタという機銃掃射があり、教会の敷地にあった防空壕に避難していA近くにいた男の人にしがみついて見ていました。

女子は男性と一緒に帰宅するように指示があったので私は同じ大口に住んでいた方と帰りました。

kurokoge 黒こげの電車、馬、人写真は伊勢佐木町付近・29日11時ごろ(朝日新聞:横浜大空襲展パンフより)電車も消防自動車も人も馬も黒焦げになりごろごろ転がっていました。電線にはトタン鰍ェできていました。やけどを負った人がたくさんいたようですが、私は、死んだ赤ちゃんを背負って、助けを求める若いお母さんのことしか覚えていません。そのお母さんは、先生や看護婦さんから「もうお子さんは死んでいます」といわれても、聞き入れず、生きているから助けてと狂ったように先生にしがみついていました。

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岩井さんはこんな中を歩いて帰宅した 青木橋付近(朝日新聞)
父も母も無事でした。庭には不発弾が転がっていました。もし爆発していたら我が家も。「ああよかった。神様 仏様ありがとうございました」そんな思いで母に抱きつき大泣きしました。
一緒に帰ってもらった男性のお宅も無事でした。家族も無事でした。三井銀行に勤めていた姉は、一緒に逃げ、一歩前を歩いていた親友が焼夷弾の直撃で死んだと語ってくれました。戦争は悲惨です。武器もない一番弱い人が一番ひどい目にあいます。今思えば、死ななかったことが奇跡でした。

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