戦争体験集

山上光秋さん(川島町・1926年生まれ)

2012年3月4日

yamakami被災地 『満蒙開拓青少年義勇軍として満州』

川島町くぬぎ台団地に住んでいます山上さんに戦争体験を話していただきました。山上さんは、満蒙開拓青少年義勇軍として満州に渡り苦労して1953年(昭和28)に日本に帰りました。

手塚: 山上さんの生まれたのはいつ、どこですか。

山上: 1926年(昭和元年)、群馬県新里村(桐生市の近く)です。

手塚: 当時の状況をお話下さい。

山上: 家は農業で、8人兄弟(4男4女)の3男です。次男は南方戦線で戦死しました1941年(昭和16年)3月、15歳で地元の新里高等小学校を卒業。太平洋戦争がはじまった年で、五族協和とか大東亜共栄圏などという言葉がしきりに言われていました。

手塚: 高等小学校を卒業してからどうしました。

mansiyu山上: 卒業した年の4月1日「満蒙開拓青少年義勇軍」内原訓練所へ入所しました。

手塚: 「満蒙開拓青少年義勇軍」内原訓練所というのはどのようなところですか。

山上: 日本は中国の一部である中国東北部に満州国という日本の傀儡政権を打ち立て本国から満州に「多くの人や家族を送り出しました。長野県のあるところでは、地域上げて満州に移住したところもあるそうです。
その一つが「満蒙開拓青少年義勇軍」で主な目的は、満州に渡って開拓をすることでした。全国から高等小学校を卒業した青少年などを募集し,1年間茨城県の水戸市に近い内原の訓練所で訓練し満州へ送ったのです。
満州へ行けば10町歩の土地がもらえるということで、たいした不安もなく希望しました。同じ高等小学校から3人入所しました。この訓練所で12月15日ラジオで太平洋戦争がはじまったことを知った。

手塚: 山崎豊子著「大地の子」にもそのような場面が出てきますね。その後どうなりましたか。

山上: 1年間の訓練を終了し1942年(昭和17)3月、下関から関釜連絡船で朝鮮に渡り、満州国北安省鉄麗県の鉄麗義勇隊訓練所へ入隊しました。
1944年(昭和19)3月、持ち物全てを行李に入れて、ソリのようにして雪の中を21時間歩き現地「大利根義勇隊開拓団」に移行、そこは極寒の地で、見渡す限りの草原や雑木林で、鍬で掘り起こし高粱などの種をまいた。移住した翌年の1945年(昭和20)8月18日終戦を知リました。
手塚: 終戦の後はどうなりましたか。

image8山上: 退却が始まった。銃は井戸に投げ捨て、家には火をつけ燃やしました。開拓団によっては自決覚悟で現地にとどまったところもあったようです。他の開拓団に身を寄せ、2週間ほどして開拓団の事務所があった町に移り北方守備隊に合流した。ほとんど女、子どもだった。その後移動中に熱を出し入院、そこの病院で隣村出身の軍曹に出会いいろいろ面倒を見てもらった。病院では次々に死者が出るが、死んだ人の親指を切り取りそれに名前を付けておき、死体は山のようになっていた。食料がないので栄養不良で死んだ人が多かった。

病気が治って北安という町に移った。ここで八路軍に会った。体が小さかったこともあり衛生兵みたいなことをしていた。当時中国は内戦状態であった。国民党と戦いながら南下した。このころには人民解放軍と呼ぶようになった。海南島から洛陽の病院(人民解放軍の病院)に移った。ここで日本に引き上げることになり1953年(、乳飲み子を抱えたり、小さな子どもの手を引っ張ったりしなければならなかっ女の人は、大変な苦労をした。戦争はむごいものだ。いつでも戦争の犠牲になるのは女の人や子どもだ。戦争は絶対に起こしてはなりません。

手塚: 「いつでも戦争の犠牲になるのは女の人や子どもだ。」という言葉は、イラクやアフガニスタン戦争でも同じだと思います。
平和憲法を守りましょう。山上さんありがとうございました。

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