戦争体験集

伊関セツ子さん(岩間町・1925年生まれ)

2012年3月6日

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「帰路に見た 黄金町・伊勢町・反町・西久保町」 空襲当時は反町在住 20歳

5月29日、私はいつもと同じように8時少し前、反町の生家をで、京浜急行に乗り出勤しました。金沢八景にあった海軍航空技術廠で部員室係として将校の秘書のような仕事をしていました。技術廠に入るとまもなく空襲警報があり、決められた書類を持って防空壕に避難しました。わたしたちの乗った電車の次の電車は杉田で爆撃されたとのちに聞きました。

何時間ぐらい入っていたのでしょうか。昼少し前、空襲警報が解除になり防空壕から出てみると横浜方面に入道雲がいくつもたち上がっていました。

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まだ燃えつづける市内。横浜・浅間町(朝日新聞:横浜大空襲展パンフより)

「横浜が全滅した。横浜方面の者はすぐ帰宅せよ」という指示があったので私たちは帰路につきました。一緒に帰ったのは、私も含め仲良し3人娘、横浜在住の少尉さん、講習に来ていた軍曹さんの5人でした。軍が出してくれた車に便乗して杉田まで来ました。焼夷弾の油脂による黒煙で目もあけられない状況で、車はこれ以上前進できないと、歩き出しました。

黄金町のあたりは、足の踏み場もないほど死体がごろごろ転がっていました。立ったままの姿で焼け焦げた人も見ました。もうもうと立ち込める黒煙の中、折り重なる死体を踏み越えるようにして西区の伊勢町あたりまで来ました。

講習に来ていた軍人さんは、戸部に今でもある旅館の大黒屋に軍刀を置いてきたからそれを取りに行くといって別れました。少尉さんは自宅が田園調布の方だったのでこの方とも別れました。女3人、とぼとぼ歩いて反町の生家に向かいました。反町は一面焼け野原で、木一本残っていませんでした。あちこちで破裂した水道管から水が吹き出していました。

市電通りと電車が交差する踏み切りの所で私は家族と再会しました。60歳過ぎの父母、23歳の姉、姉の子と兄から事情があって預かっていた当時まだ2、3歳子ども2人。5人とも無事でしたが、家は類焼して残っていませんでした。

向かいの家が焼夷弾の直撃を受け、なかで布団をかぶっていた奥さんが火だるまになり、私の家の玄関に飛び込んできたそうです。姉はそのとき、その奥さんの髪の毛が文字通り総毛立ちしていたと、のちに話してくれました。火だるまの奥さんの火は、瞬く間に玄関の障子に燃え移りました。姉たちは、水を汲みに行ったことまでは覚えているそうですが、水を掛けたかどうか覚えていないそうです。

預かっていた兄の子どもにもしものことがあってはと父が兄の子を、姉が自分の子を負ぶい、青木橋前の東海道線に沿って当時あった溝のような小川に身を伏せたそうです。今、坂田種苗店のある辺りです。飛行機からの機銃掃射があり、姉たちの前や後ろの人が何人も撃たれて亡くなったそうです。

逃げるとき父は用意してあった柳行李はもたず、玄関にあった傘4本を腰に刀のようにさしていたそうです。この空襲で僅かにあった家作も自宅も失い父はボケてしまいました。

焼けたトタンを拾い集め近所の大工さんに掘っ立て小屋を作ってもらいました。8月に入り姉のご主人の実家のあった仙台に疎開しました。疎開してから数日して終戦を迎えました。

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