戦争体験集

吉田実さん(釜台町・1934年生まれ)

2012年7月14日

yosida 私は昭和9年生まれで,当時小学校5年生でした。和田愛児園から船員病院の方にあがってくる大池道路の途中の保土ヶ谷中学裏門に近いところに住んでいました。
B29はちょうど橘中学の方向(南)からきて現在の国大の方に飛んでいきました。最初は渡り鳥の群れのようにみえました。爆弾を満載したB29のエンジンは、その重さのために「グァングァン」とお腹に振動が響くような音を立てて近づいてきました。 そのうち、空はB29に覆われてしまい暗くなるほどでした。高射砲をいくら撃ってもとどきませんでした。友軍機が向かってゆきましたが、みんな紙飛行機のようにあっという間に撃ち落されひらひら舞うように落ちてしまいました。

B29が通り過ぎるとザーと夕立のように焼夷弾が降ってきました。いま保土ケ谷中学校のあるところは当時まだ畑でした。その畑に1間(2メートル)おきぐらいに焼夷弾を降らせました。

当時の釜台町には、今と比べたらほんとうに僅かな家しかありませんでした。上星川の駅前から上がっていく階段沿いには数軒家があったようですが、そちらの方のことは、覚えていません。私の記憶では、釜台町で被弾し、家を焼かれたのは、私の家と向かいの高橋さんと家庭学園だけだと思います。町内で亡くなった方はいまの保土ヶ谷中学崖下付近に住んでいた鳥屋さんの家人一人だけだったと記憶しています。
私は、家庭学園の中にあったふた抱えもある杉の木のてっぺんに逃げました。防空壕が大池道路沿いの今の釜台会館のところにありました。私は防空壕が嫌いだったので杉の木に攀じ登りそこから空襲を見ていました。竹槍だ、バケツリレーで消火活動だ、と政府や軍はいっていました。しかし、そんなことをしていたらみんな死んでしまったと思います。
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保土ヶ谷付近,バックは炎上する横浜中心街

(朝日新聞:横浜大空襲展パンフより)

  山の上から見ると和田町も峰沢もボンボン燃えていました。火事がおさまったあとで様子を見に行きました。火事の熱のためでしょうか、池の鯉が浮き上がっていました。タンポポのような雑草までも食べる毎日でしたから、浮き上がった鯉をとってきて食べたことを覚えています。
  空襲があってからしばらくして、焼夷弾の不発弾を拾い、信管をはずしてから中の燃料を取り出し、それを生木に塗って燃やし風呂を沸かしました。生木でもよく燃えましたから、焼夷弾の燃料が体についたりしたらもうどうすることもできなかったと思います。
焼夷弾の殻は保土ヶ谷中学裏門の現在空き缶入れのあるあたりに古い井戸があったのでその中に捨てました。二三年前、近所の竹やぶで焼夷弾のからを見つけました。だいぶ錆びついているでしょうがまだきっとあると思いますよ。

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