戦争体験集

広瀬タミさん(初音ヶ丘・1929年生まれ)

2012年7月12日

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当時私は15歳。父はすでに亡く、母と弟妹は秋田へ疎開し、たった一人で横浜に残り、寮生活をしながら国鉄で働く少女でした。戦時中、男の人たちは戦地へかり出され、主な働き手となったのは若い(幼い)女性たちでした。
5月29日は、浅野駅(鶴見線)に泊まり勤務でした。夜、空襲警報のサイレンが鳴り出しました。すでに横浜の方の空は真っ赤に染まっていました。そんな中、私を含め女性2名、男性4名の職員で鶴見の方に逃げました。
しばらくして、空襲警報が解除され、浅野駅に戻る途中、重要書類を持って先頭を歩いていた男の人(名前は忘れてしまった)が防空壕に入ろうとして爆撃機に直撃されて、見る影もなくばらばらに吹き飛んでしまいました。私たちは、ホームの下で難を逃れました。あまりの恐ろしさに、またみんなで鶴見の総持寺に逃げました。松の木の根本にかたまって一晩過ごしました。翌朝8時頃目が覚め、浅野駅に戻ると助役さんたちがばらばらになった遺体を掘り出していました。「よく生きていた、全員だめかと思った」と喜んでくれたのもつかの間、職場放棄でひどく怒鳴られてしまいました。当時は『死守』してあたりまえの時代でしたから。浅野駅付近は、日本鋼管・日本ガラスの工場街であったためによくに狙われたのだと思います。

どれぐらい時間がたったでしょうか。また歩いて、今度は寮のある戸部へ向かいました。まだ子どもの私には、焼け野原の中、真っ黒こげになった焼死体がゴロゴロと横たわっているその道のりは、言葉にならないほど辛いものでした。途中同じ国鉄職員と出会い。、無事を喜び合っている途中にそのうちの一人が、不発弾を拾い、目の前で片腕が吹き飛んでしまったり、まるで地獄を見たようでした。その男の人は、憲兵が来て連れて行き消息不明となってしまいました。

やっとの思いで約11キロ離れた寮にたどり着くと、寮は焼け落ちていました。焼け落ちた寮そばに寮長がすすけて真っ黒になった顔で待っていてくれました。たった一枚の罹災証明書を渡すためだけに。「寮は焼けてしまったと職場に戻って話しなさい」と言ってくれました。持ち物はすべて灰になり、住むところも焼けて、これからどうなるのかか、どうすれば良いのか、私には何も考えられませんでした。
これが私の経験した大空襲です。この大空襲の後、私がたどった人生は、もっと辛く長い思い出となって私の心の中に横たわっています。
私は現在、脳梗塞で療養中です。56年という年月が経っていることもあり、記憶に時間などの混乱があるかもしれせん。お許し下さい。しかし、ここに書いた事実が起こったことは間違いありません。

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トタンの上に放置された死者 黄金町付近(朝日新聞:横浜大空襲展パンフより)

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