戦争体験集

手塚三千代さん(上菅田町・1937生まれ)

2012年7月10日

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     被災地「平沼橋から保土ヶ谷駅」

      空襲当時は平沼橋在住 8歳(小学2年)

    私は平沼橋で空襲にあいました。もともと、私の家は洪福寺の裏にありました。横浜大空襲の数カ月前の空襲でその家を焼かれ平沼橋に移りました。平沼橋周辺も空襲でほとんどの家は焼けてしまい、焼け残った家も住人はみんな疎開してわずかに空家が残っていました。そんな空家の一つに私たち家族は移り住んでいました。  父と三菱ドックに勤めていた二人の兄、14歳と12歳の二人の姉と8歳の私の6人家族でした。母は弟を出産後、産後の肥立が悪く、私が2歳のとき他界しました。 父は弁当屋を営んでいました。その店も、相次ぐ空襲のために閉め、港で荷役人などをしながら私たちを男手一つで育ててくれた。 

   横浜大空襲の日は、父や兄は勤めに行っていましたから、家にいたのは14歳の姉を筆頭に3人の姉妹だけでした。 当時、まだ平沼橋の周辺には広い空き地がありました沢山の焼夷弾が落され、あたりが黒い煙を上げて燃え出したので私たち3人の姉妹は、空き地に身を伏せていました。平沼橋は越してきてそんなに経っていませんでした。ですから、近所にわたしたち3人の子どもを気遣ってくれる知り合いもありませんでした。 次第に火災は激しくなり、黒煙が襲ってきたので姉二人に手を引かれて線路伝いに保土ヶ谷駅に向かって逃げました。線路伝いといっても東海道線の線路の両側はものすごい火勢でしたから線路の中を歩いて逃げました。熱くてたまりませんでした。 しばらく行くと踏切りがあり、その傍らに防火用水がありました。私たちはその防火用水の水を頭からかぶって熱さを防ぎました。途中、顔に火傷を負った人などを見たことを覚えています。しばらく行って保土ヶ谷駅の近くの杉山神社に逃込みました。その頃私は水疱瘡にかかっていました。水疱瘡の痕を火傷の痕と間違えられました。その晩は3人で杉山神社の参道の階段に座って一夜を明かしました。回りに人がいたかどうか覚えていません。  逃げ出したときお櫃(ひつ)を抱えていました。ほかには何も持たず豆の混じったご飯の入ったお櫃だけを抱えて逃げ出したわけです。今では、記憶にありませんが、そのお櫃のご飯を食べながら一夜を明かしたのだろうと思います。  
   翌朝、父が私たちを捜して、見つけ出してくれるまで私たちは参道にいました。平沼橋の家も焼けてありませんでした。焼け跡に拾い集めたトタンで文字通りバラック小屋を建て、そこで終戦を迎えました。 父は戦争が終わって、昭22年42歳で亡くなりました。子どもたちのために父は懸命に働いてくれました。結核を患い、栄養失調に苦しみながらの

   最期でした。骨と皮だけになった父の体には、注射の針をさすことも出来ませんでした。

3人が一夜を明かした杉山神社の階段
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