戦争体験集

須藤順さん(西久保町・1927年(S.2)生まれ)

2012年3月2日

須藤さん 

悪夢の南アジア補給路

昭和16年12月8日太平洋戦争が始まった。翌年昭和17年5月、当時十五歳だった私は、東亜海運所属の中華丸に甲板員見習いとして乗船した。上海で日本からの積み荷を下ろし、山東半島の連雲港から露天掘りの石炭を八幡港に運ぶ。あるいは上海からの帰路、朝鮮の鎮南埔で鉱石を積み八幡港へ運ぶ航海に従事していた。その後乗組員四十数人は陸軍に徴用され、暁部隊に配属されて、廣島の宇品港で軍用船として船の改装が行われた。船体は迷彩色のペンキを塗り、船首に大砲一門、船尾には機関銃一丁がすえつけられた。

私たちの任務は、ニューギニアのマノクワリ港に軍事物資を輸送することだった。五隻で船団を組み、護衛艦が二隻。途中で台湾の基隆(キールン)に寄港したが、港外には爆撃を受けて航行が不能になり、船体が真っ赤に錆びたままの図南丸が係留されていた。南下するにつれて攻撃の情報が頻繁になり、厳重な見張りが要求された。 モルッカ海峡を航行中、前方の一隻が雷撃受けて航行が不能になり私たちの船が曳航することになった。右に傾いた遭難船の右側に接舷し、乗務の船員を残して軍人・軍属などの乗組員を綱渡りで乗り移らせる。そして海上に浮いている人たちをボートで助け、全員乗り移ったところで曳航を試みたが、ロープが切れて失敗。二度目は太いワイヤーロープ二本で曳航した。 攻撃を受けたらすぐにロープを切断できるように大ハンマーと斧を用意して航海し、数日後にはヘルマヘラ島の港の比較的浅い場所まで曳航した。遭難者の中にいた同郷の雫石君に突然声をかけられ、遠く離れた異国の洋上での出会いに大変に驚いたこともあった。

当時はガダルカナルやブーゲンビル島の攻防がはげしかった時期でニューギニアの基地の役割が重視され、兵員や物資がつぎつぎに送り込まれていた。海岸一帯はマングローブに覆われているため接舷する桟橋もなくハシケでくり返し物資を運搬するのであった。中華丸はその後、シンガポールから兵隊や物資、そして多数のインド人の捕虜を、飛行場や基地建設に使うため輸送した。

ながい航海だったので捕虜のインド人たちと話し合う機会も多くなり心の通じる捕虜もできた。戦争が終わったら連絡しあおうと、住所まで書いて私に渡して別れた者もいた。石鹸やタバコなどを分け与えてやったりもした。彼らは下船の時には涙を流しながらハシケに乗り移っていった。

輸送を終えてジャワに向けて航行中。私はマラリアに罹って倒れてしまった。医療設備などほとんどない船のこと、高熱と脱水症状で食事もとれず、息をしているのがやっとの状態であった。あと数日入港が遅れていたら手遅れだったに違いない。ジャワのスラバヤに入港し、直ちに陸軍病院に運ばれた。

私のベッドの両側にガダルカナルの戦いで負傷した兵士が治療を受けていた。回復した私は一航路を終えてスラバヤに入港してきた中華丸に再び乗船することができた。再会した同僚たちは、近く日本に帰れるという話でにぎわっていた。日本では手に入らないような品々が、ジャワでは豊富で安く店頭にならんでいたから私たちは土産品を買い揃え帰国の準備に忙しかった。特に革製品や石鹸、砂糖、ブランデー、タバコなどの土産に人気があった。帰港は積み荷のない航海だった。

フィリピンで撃沈、現地人の襲撃

マニラに寄港してあわただしく積み荷が行われた。行く先はレイテ島のオルックである。そう離れてはいない所だが、付近一帯が危険な状態であるため、迂回しての航海だった。静かな海に長くのびた海岸に突き出た急ごしらえの桟橋に接舷し、徹夜の荷降ろし作業が続いた。いつ攻撃されるかも知れない危険な状況であった。 作業を終えて後続の船と入れかわり、近くのイロイロ島に向け航行していたが、目的地が見える程の距離に近づいたとき「待避せよ」との連絡をうけた。点在する島の一つに近づいて投錨した。島の周りには四、五隻の船がまばらに待避していた。待避している間はきまった仕事もなく、米俵をデッキに広げ、米の中に大量に混じった籾を取り除くためにみなで選別作業を行っていた。人間の食料とは思えないほど籾が混じっていて、毎回の食事に大変時間がかかり苦労していたのだ。 待機してから3日目の昭和19年9月24日 午前10時を過ぎた頃、澄んだ空の彼方から爆音を響かせて無数の飛行機が変態飛行で近づいてきた。「敵機だ!」と誰かが叫んだ。居合わせた者はあわただしく船室に飛び込んだ。私も急いで救命胴衣を身につけ、攻撃に備えた。

急降下による機銃掃射が繰り返され、狭い船室にも無数の弾痕がつき、攻撃の激しさはたとえようもなかった。私はふと、背中に痛みを感じた。手を当ててみると救命胴衣を突き破った弾で負傷したらしく出血していた。波状攻撃は午後四時過ぎまで続いた。

その後、爆弾投下が始まった。水深が浅く、破裂する度に船ははげしく振動した。やがて一弾が後部の船倉に命中し、船はみるみる傾き始めた。乗組員はみな急いで海に飛び込んだ、病気や負傷した人たちは仲間に手を借りながら飛び込んでいた。筏や流木にすがっている者めがけて、水面すれすれに機銃掃射が執拗に繰り返された。逃げ場のない私は、敵機が急降下してくるたびにあわてて水中に潜った。敵機が飛び去ると懸命に岸に向かって泳ぐ。負傷して着衣のままだったので、うまく泳げず、泳ぎつくまでにおおいに手間取った。海岸はやしの木が繁り泳ぎ着いた私たちは攻撃を避けるため急いで茂みの中に入った。椰子の茂みの中に丸木を並べて作った家屋が4戸ほど目についた。住民は危害を恐れてか、非難していて無人になっていた。その家屋に負傷した人たちが収容され応急手当を受けている。 夜になると蚊が多くて寝苦しいので、浜辺に出て穴を掘って寝た。眠りについて間もなく、近くで銃声が鳴りだした。一瞬また敵機の攻撃かと錯覚した。私はみんなのいる所に這いずる様に近寄り、はじめてその銃声が住民たちの集団攻撃であることを知った。

船から脱出する時に持ってきた銃で、数人が応戦している。「明るくなると狙い撃ちされるので暗いうちに、島を離れるように」とのことだった。幸い、岸から二百メートルほど離れたところに、百トンほどの徴用された木造船が大した破損もなく、浅瀬に乗り上げたままになっていた。その船まで、なるべく早く乗り移ろうと負傷した人たちを筏に乗せ、声を押し殺し、水の音も出さないようにしながら、数人がかりで往復して運んだ。少し明るくなってきたころ、予想した通り、相手は狙い撃ちしてきたが、私たちはなんとか船にたどり着くことが出来た。 その船ではおそらくまた現地人たちの襲撃が予想されたので、船に積んであった袋詰めのコンクリートで両舷に土嚢を築き、襲撃されたら投げつける計画をたてた。余分の積み荷は海に捨て、銃弾でできた水面下の穴をうめ水をかい出して座礁した船を浮かすことができた。 エンジンを始動させてみると、船は心地よく振動し、やがて静かに動き始めた。これでやっと生きて帰ることができる。その時の歓びと感激は表現のしようもないほどであった。このまま故障もなく無事に航海したいと願う気持ちでいっぱいだった。この船でマニラに入港し、負傷していた私はすぐに陸軍病院に入院し、銃弾の摘出手術をうけた。傷口もまだ治らない状態だったが、さし迫る戦況のためか退院は早められた。指定された宿泊所で軍の指示を待っている同僚たちと合流した。間もなく停泊中の阿里山丸に全員乗船、との通告がきた。

帰国の便乗船も遭難、生と死の帰還

阿里山丸(6000トン)では中央部にかけて船首にかけて、船倉内に棚が作られ、そこにはなんと米軍の捕虜でうずまっていた。私たちには他の部隊の人たちと一緒に、後部の船倉が用意された。

八隻の船団が護衛艦五、六隻に護られ、大変心強い気持ちで出港した。

二日ほど航海すると海は次第に荒れはじめ、人間以外に積み荷の無い阿里山丸は、木の葉のようにゆれる上、船あしは遅々として進まなかった。行動を共にしていた船は潜水艦の魚雷攻撃でつぎつぎに消えていった。私たちの乗った船も間もなく攻撃の目標になった。斜め後方から二本の魚雷が撃ち込まれたが、船体をわずかにそれて雷跡は荒れる海に消えていった。しかし、攻撃は執拗につづき、ついに船の中央に命中した。船体は折れ曲がり、はずみで投げ出された者、あるいは海に飛び込んだ者も多かった。大破して沈没しそうな船に、なおも攻撃がつづいた。爆発の衝撃で、漂流中の者が犠牲になった。私は漂流ときに役に立つようにと茶筒ほどの缶にカンパンを入れたものを傾く船室の中で探していた。そのために難をのがれた。沈みかけた船にこれ以上いては危険であると考えて海に飛び込んだ。荒れる海で筏にすがって漂流することは、まことに心細いものだ。筏が離れ離れにならないようにロープで結んだ。 サメの餌食にならないように、用意した六尺あまりのサラシを腰から垂らして流す。 いつ救助にきてくれるのだろうか。寒さと疲労におそわれながら波にもまれ押し流されように、と必死で筏をつかんでいた。 夕刻も近づいたころ、ようやく護衛艦がきた。ロープの先に輪をつくり漂流している者めがけて投げ込む。停止すると攻撃目標になって危険なために減速しての救助活動だ。私にもロープが投げられた。輪になった部分を急いで身体に巻きつけ、艦上に引き上げられた。

捕虜たちも救いを求めて必死にロープにすがりついて哀願するのだが、振り落とされたり蹴落とされて一人も救助されず全員が見捨てられた。

私は護衛艦に救い上げられると、仲間の者が何人助かっているのかを確かめようと艦内をみて回った。狭い通路には足の踏み場も無いほど負傷して身動きできず苦しんでいる者や、不運にも息を引き取った人たちが横たわっていた。同僚の森本君は腸内出血しているらしく、かすかな声で水を欲しがるので運んでやった。シャツの端に水を浸し口もとまでもっていくのだが、吸い込む気力さえなく、しばらくすると彼は、吐血しながら息を引きとった。護衛する輸送船はすべて沈められ、私たちを乗せた艦は台湾の高雄に入港し、死亡した人や負傷した人たちを残し、ただちに出港した。そして船はひたすら全速で北上を続け、門司港に到着した。ジャワを出港するとき、日本に帰れる歓びにわいていた仲間たち、家族と再会できる喜びを千秋の思いで待ち望んでいた中華丸乗組員のうち、内地の土を踏むことが出来た人は僅、いく人いたのだろうか。宿舎に集合した私たちに憲兵の訓示が行われた。「ご苦労であった。各自家族の元に返って行くが、諸君の戦地で経験したことや軍の行動について、口外することの無いように」 秋も深まる昭和十九年十一月、私は着替えるものもなくひたすら母と再会できる喜びに心弾ませながら郷里に向った。 その後、関係機関からなんの連絡もなく終戦を迎えた。

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