戦争体験集

笹原さだ子さん(星川三丁目・1932年生まれ)

2012年3月1日

image14昭和7年(1932年)6月山梨県に生まれる。昭和14年4月山梨県中巨摩郡大里尋常高等小学校へ入学した。

大酒飲みで仕事ぎらいの父は、生家を追われ、母と私をつれ、農家の手伝いをして転々としていた。母もまた、「できない、できない」といって、女のする仕事はなにもしないで、一生を終えた人だった。そんな母が、いなご取りをして売ったお金を天井裏にかくしておいて、入学のとき、ランドセルとセ-ラー服を買ってくれた。それは、上等ではなかったけれど、子を思う親心に変わりはなかったと、涙が出るほどうれしかった。

すこしお金が入ると、すぐに酒を飲んでしまう父。子どもが生まれそうになっても、おむつ一枚つくらない母。学用品はおろか、教科書も満足に買ってもらえなかった。着るものはほとんど他所からもらったお古ばかり。

昭和16年(1941年)、小学校は国民学校と変わった。12月、太平洋戦争の始まったころ、一家をあげて満蒙開拓団として満州へ渡った。学校は日本人学校で、満州国牡丹江省東寧県石門子村狼洞溝、狼洞溝在満国民学校といった。生徒数はニ十数名(後に百名をこえた)、先生は4名(男女2名づつ)。

開拓団は115軒、広い道路と畑をはさんでレンガ造りの家が二列に並んでいた。私の家は63号という札がかけてあった。見わたすかぎりの広野原と凍てつくような寒さに心細くなった。「あの山を越えるとソ連だ」父が北の山を指さしていった。

学校までの道のりは片道5キロ、往復10キロはあっただろうか。開拓団をぬけると、学校まで家は一軒もなく、そんな中ををみんな励ましあいながら通う。着ている防寒着がみんな同じカーキ色で、顔をのぞきこまなければ男か女かさっぱりわからない。私は男の子を女の子とまちがえてよく恥をかいた。雪が降り続きたちまち屋根までつもる。そんなある日の帰り道、山の雪の中で真赤な大きいほおずきをみつけた。それは豆電球ほどもあった。一面銀世界の中で宝物をみつけたようにうれしかったのを、今でもおぼえている。

00父は軍属として部隊へつとめていたが相変わらず酒を飲み配給品の半分以上は酒に替えてしまう。生活はすこしも楽にならなかった。母は内地へ帰りたいといっては泣いていた。

裁縫がはじまって、だんだん大きいものを作りだした。ブラウス、ワンピース、ゆかた、フトン作りもおそわった。やれば、なんでもできた。配給されるのが白生地ばかりなので、作ってから染めた。染め方が下手なので、最初のうちは何回か洗っているうちに、元の白地にもどってしまう。だんだん上手にになって、落ちなくなってきたけれど。
冬は厳しかったが、夏はすばらしかった。どこまでもつづく大豆畑にコーリャン畑、真赤に燃えた夕日が地平線に沈むときなど、なんともいえない美しさだった。

私はよく薪をとりにいくといって、学校や友達から借りた本をかかえ、山へ行った。山には牡丹、シャクヤクなどの花が一面に咲いていた。薪とりを終えると、野原にねころがり、本を読んだ。日曜日に友だちとつれだって野を越え、山を越えし、父の通っている部隊へ遊びにいったこともある。

ある日のこと、ひとりの兵隊さんが、「おねいちゃんたち、歌を聞かせてあげようか」と、『誰か故郷を思わざる』を謳いだした。「花摘む野辺に日は落ちてーーー」はじめて聞く歌だった。兵隊さんの目に、涙がにじんでいたのを私は見た。歌の文句から察して、なんとなく兵隊さんの気持がわかるような気がした。

5年生になってすぐ、妹が生まれ、一週間で死んだ。育子と名づけられたその妹は、今も満州の土の中で眠っている。こうして足かけ四年の月日が過ぎ、19年8月、私たちは内地へひきあげることになった。父が南方へ志願し、家族を内地へつれ帰るということだった。
二度と踏めないと思っていた日本の土が踏めと思うと、うれしかった。

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