地下坑道

地下坑道とは

2012年4月12日

001左の写真は何だと思いますか。これは、保土ヶ谷区にある明神台団地の地下47メートルに掘られた地下坑道の跡です。幅・高さ約2メートル、人間が楽に歩くことができる大きな坑道です。

保土ヶ谷区には広範囲にわたって(約300ヘクタールにおよぶともいわれています。)地下坑道が存在することはわかっていますが、このことを知っている人は意外に少ない。

戦争中この一部は防空壕などに使用されたと言う話です。また、戦後、放りっ放しの時期には子どもたちの冒険の場所となっていたところもあったようです。

この地下坑道とはいったいなんなのでしょうか、どうしてできたのでしょうか。

1986年(昭和61)発行の「神奈川県.地学のガイド」には、次のようにな記事が記載されています。

002「地学のガイドシリーズ」
見上敬三監修 奥村清編
コロナ社
改定 神奈川県 地学のガイド
昭和61年10月20日改訂版第4刷発行
神奈川県の地質とそのおいたち
158ページより


日本ガラス工業の近くのがけや帷子川の上流の川島町付近の川岸では、鶴川瓦層の下位に、数10cmの厚さの珪砂が見られます。古老の話ですと、昔、精米にこの珪砂をもみといっしょに臼に入れてつかったそうです。日本ガラス工場が神戸町に建設されたのもこの珪砂をガラスの原料として使うためだったそうです。以前、日本ガラス工場の付近には、採集あとの横穴がたくさんありました。このころ、ガラス坂という名の坂道もこの近くにあったそうです。


また、1977年(昭和52)発行の保土ヶ谷区制五十周年記念誌「保土ヶ谷ものがたり」には、明治から大正期にかけて帷子川下流地帯に進出した工場として、大日本ビール会社などを記載し、次のような記事が載っています。

大日本ビール㈱保土ヶ谷工場は、明治39年に創立し、大正9年に日本ガラス㈱(大正5年創立)を合併し、ガラス部門は製びん部となった。

昭和8年にはビール部門の製造を止め、ガラスびんと王冠コルクの製造に専念するようになり、11年には製びん部が大日本ビールから独立して、日本ガラス㈱横浜工場となり今日にいたっている。

大日本ビール時代、この地には神中線の引込線があったので、貨物輸送の便がよく、製びんの原料となる珪砂を付近の山中からとれるという地の利があって大いに発展した。

日本硝子の記念誌には、次のような記事がのっています。

製造工程と技術
1 原料
ガラス原料は、珪砂、ソーダ灰、石灰石、カレット(ガラスを粉砕したガラ スの屑)だ。これに、溶融促進剤、酸化・還元剤、着色・消色剤として微量 の硝石、芒硝、カーボン、セレニウムなどを調合する。原料で最も重要なの は珪砂である。良質で均質なガラスを作るためには、品質変動の少ない珪砂 を使わなければならない。・・・
※関連会社として下記のような会社が記載されています。
日硝珪砂有限会社、日本硝子珪砂株式会社

これでも明らかなように、帷子川沿い山側一帯には珪砂の層があり、これを原料としたガラス製造工場ができたのも当然なことでしょう。

古老の話では、仏向町では山の斜面に穴があいていてトロッコが出入りしていたとか、ガラス工場の裏の斜面には同じように穴があいていてトロッコが出入りしていたそうです。

また水道道にはトロッコが走っていたとの話も聞きました。

地下坑道は、ガラスの原料として使用した〝珪砂〟を掘った跡であることは明らかです。

ガラスびんの原料となる珪砂の採掘は、大正初期から戦前にかけ約30年にわたって行われたことになり、採掘された跡の坑道は相当なものになることは想像できるでしょう。

003

坑道入口の跡は以前あっちこっちに見られましたが、現在では危険防止などから塞いでしまっているので見ることはできません。写真は星川1丁目・星川郵便局近く、明神台団地下の崖に露出していた頃のものです。

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