戦争体験集

戦中・疎開・戦後を生き抜いて 

2021年8月28日

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「戦争体験者のお話を聞く会」にて、2021年8月15日 石渡 康正

 私は、昭和9年1月25日、保土ケ谷区星川で生まれました。昭和15年4月、星川小学校入学、昭和16年12月8日 太平洋戦争が開始されました。当初は、破竹の勢いでしたが、戦局は次第に悪くなり、昭和17年4月、本土初空襲がB25で開始されました。昭和18年4月に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、11月、南雲忠一大平洋艦隊第1方面司令長官が戦死し、戦局はさらに厳しくなっていきます。

昭和19年8月、学童集団疎開令が出され、5年生だった私は縁故疎開で母の実家へ(今の茅ヶ崎市下寺尾)、半年後に2年生の弟も来ました。

疎開先で経験した田畑での仕事のつらさと働いた後の充足感が、私の人生の礎になっています。おじさんは「お前たちは、預かっているのだから家の子より大事なんだ」と言ってくれましたが、朝食の時、弟の袖を引っ張り“あまり食べるなよ”と、気を使いました。農家だったので勉強する雰囲気はなく、私も1年間全く勉強しなかったので、中学校入試にひびきました。

昭和20年4月、東京大空襲、その後横浜も空襲で天王町や星川にあった工場は焼け野原にされました。

昭和20年8月、敗戦、12:00天皇陛下のラジオ放送がありました。おじさんが「康坊、お前もう横浜に帰れるわ」と言われ、9月、疎開から帰りました。

昭和21年4月 横浜中学校に入学(志望校に失敗して)しました。当時の思い出は、食料が全く無く、栃木県小山や伊豆大仁へ買い出しに行ったこと。かいかい(疥せん)や栄養失調も。夏休みに駐留軍の人夫(父は毎日)として楠原組、藤木企業で働きました。日当が大人が130円でしたが私は100円でした。父は昼食にもらうおにぎりを3円~5円で売って母へ。

昭和23年12月23日 東条英機他7名のA級戦犯が巣鴨留置場で死刑にされ、翌朝、久保山で火葬され、東京湾上空で散骨されました。

昭和24年4月 湘南高校(定時制)に入学しました。クラス45名のうち7名が昼から移ってきました。昼間は、天王町や井土ヶ谷のベニヤ板店で働きました。仕事はノーパンク自転車でリヤカーを引きベニヤ板の運搬でした。

昭和28年3月、湘南高校を卒業しました。大学入試を2度失敗、実質3年遅れで都立大学経済学部合格まで、高校卒業後更に2年間ベニヤ店で働きました。

昭和30年4月、都立大学合格と同時に電電公社(横浜中央電話局料金課)に勤務しました。大学は昼夜開講制、夜間だけ行っていると5年かかりますが、遅れを挽回すべく、土曜のゼミのみ午後1時から参加して4年で卒業しました。

電話局で、総評指令による賃上げストライキがありましたが、大事な仕事を放りだすことはできずに、私1人がスト破り、赤旗の下をくぐって1人机で仕事をしました。“こんな時代は30年~40年後に変わる”と思い、非組合員となりました。

昭和34年3月 都立大学を卒業しました。その後、オカムラ、エッソ石油、ヤマハ発動機で働きました。

近頃の政治や社会問題で思うことは・・・

カジノ(IR)は、絶対ダメ。人は額に汗して働き生きるべし。バクチ、トバク、丁半を考える人は、人と

してまともでない。「財政難だから。依存症を対策すれば・・・」ではない。こんな政治家は、止めよ。 

改憲問題、安倍さんが言う自衛隊明記は、自衛隊に白紙委任であり、世界に行って戦争できる国にすること。

戦争は、子々孫々に想像を絶する禍根を残す。1人1人が非戦を貫く覚悟とその大変さを真面目に考えよう。 以上

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